07/09/23/ ソ連との核戦争を覚悟した  

07/09/22/ Sat パワーポリテックス

第八章「ソ連との核戦争を覚悟した」。この章は衝撃的。ソ連と喧嘩しているということは聞いていたが、その実情を今はじめて知った。いろいろの謎が解けていく。
ソ連中心の社会主義路線、それを踏襲した毛沢東路線。だがソ連は、1956年に、フルシチョフ第一書記がスターリンを痛烈に批判。この秘密報告は、翌月「ニューヨークタイムズ」がすっぱ抜き、世界が知るところとなった。スターリンふうの神格化路線を歩いていた毛沢党は怒った。ソ連は裏切り者となった。毛沢東は、スターリンについて、中国では功績七分、誤り三分と評価した。

中ソの対立は、そんな昔に始まっていた。遅れて建国にまい進する中国としては、ソ連のやり方は、得手勝手と見えた。社会主義路線の二大国の決定的対立が始まっていた。だが一般には知られていなかった。

《p113 スターリン批判が行われた後の1958年7月、訪中したソ連のフルシチョフは、ソ連と中国による連合潜水艦隊の創設を提案しました。東西冷戦が激化する中で、ソ連としては、ソ連軍が指揮をとる大艦隊を創設しようとしていたのです。
しかし毛沢東は、中国の主権を侵すとして、この提案を拒否します。「自国の領土は自力で守る」と突っぱねたのです。中ソが初めて対立した瞬間でした。

また、このときフルシチョフは、毛沢東が始めた大躍進政策や人民公社運動を厳しく批判しました。「他の社会主義国の経験を無視している」となじったのです。「他の社会主義国」とはソ連のこと。スターリン時代にソ連でも同様の方針をとったものの、無残な失敗に終わったことを教訓にしていないという意味でした。毛沢東の中国が、ソ連のスターリン批判をきちんと受け止めていないことを批判したのです。

大躍進政策や人民公社運動は、毛沢東が威信をかけて始めた事業です。毛沢東にとっておもしろいわけがありません。中ソ間の溝が広がりました。》

それでもソ連による技術支援は続いていた。
1957年10月、ソ連が中国に原爆製造技術を提供するという中ソ国防新技術協定を結んだ。
しかしその後毛沢東は、フルシチョフのアメリカとの共存路線を批判。アメリカの核兵器は張子の虎だとした。毛沢東は次のように言った。「アメリカは結局のところ、怖くて核兵器を使えない。したがって、アメリカの核兵器は、見掛け倒しの張子の虎にすぎない。もし核兵器が実際に使われたとしても、我が国の人口は六億人だから、核戦争でたとえ半分の三億人が死んでも、まだ三億人残るから、人口はすぐに回復する。」

1959年、フルシチョフは再び訪中。ここでフルシチョフはアメリカとの平和共存路線を説明。また、中国がチベットを武力弾圧したことや、台湾の金門島への砲撃を非難した。フルシチョフは、中国が好戦的態度をとると、アメリカとの破滅的戦争になると恐れていた。しかし、毛沢東は猛烈に反撥。

ソ連を修正主義として批判。また、ソ連は、中国を教条主義として反論。ののしりあいの関係となる。
このこともあって、やがて毛沢東は、劉少奇やケ小平を「修正主義」として断罪。
1960年7月には、ソ連派遣の技術者をいっせいに引き上げると通告。このときの南京の「長江大橋」は、その後「自力更生」の橋として有名になった。これは、1968年9月完成。
1964年、中国は原爆実験に成功。日本は東京オリンピックの最中だった。

文化大革命の最中の1969年2月、両国は中ソ国境のダマンスキー島(珍宝島)で大規模な軍事衝突を引き起こした。以後国境紛争が激増。
さらにソ連軍部の強硬派は、上層部に対して、中国への核攻撃を進言。《p116 ソ連駐米大使のドブルイニンは、1969年8月、アメリカの大統領補佐官のキッシンジャーと会い、ソ連は中国に対して核攻撃する準備があることを伝え、アメリカの意向を打診しました。》
これを知った中国首脳部は震撼し、ソ連との核戦争を覚悟した。これにより、中国は主要な都市の地下に地下街を建設した。経済発展は遅れることになった。

ソ連に対する呼び方は、「修正主義」から、「社会帝国主義」に変わった。
中国は、ソ連、アメリカとの、二正面作戦を展開しなければならなくなった。
しかし、ここから、中国はアメリカと手を結ぶことになった。1972年2月、ニクソン大統領は北京に降り立ち、また、同年の9月には田中角栄首相が降り立った。日米、日中の国交が回復したのであった。

中国とアメリカが手を結んだことで、今度はベトナムが仰天。ベトナムは、やがてソ連寄りに変わることになる。すべては三大国のパワーポリテックスで動いていた。今も同じ。